オリンピック招致の立役者の一人である元猪瀬直樹都知事。あの当時は、これからの都政を猪瀬さんに託して期待していた人も多かったかと思います。
ところが、5000万円騒動で辞職してしまいましたよね。その記憶も新しいかと思いますが、オリンピック招致中に、最愛の妻を亡くしていたことを知らない方もいるかと思います。猪瀬さんの妻は、脳腫瘍のため急死していたのです。
妻の死と辞職・・・猪瀬さんは人生最大の辛い時期をどのよう乗り超えてきたのでしょうか。
私の何がイケないの?の番組で、その時の真実を語りました。そして、妻との約束である遺品を売却する決心をし、その様子も公開されました。
元猪瀬都知事 45年の結婚生活と妻の死を語る
2人の出会いは、1996年。猪瀬さん19歳、ゆり子さん18歳の時でした。長野県の大学に通っていた時、お嬢様だったゆり子さんに一目ぼれしたそうです。
その後、作家になるために上京した猪瀬さんを追って、ゆり子さんは黙って家を出てきました。
2人は駆け落ち同然で結婚。また、作家を目指すため大学院に進学した猪瀬さんの収入はゼロ。何の収入もない猪瀬さんをゆり子さんは小学校の教師をしながら支え続け、生活費や猪瀬さんの学費全てを払い続けました。
当時、猪瀬さんが執筆していた論文にどうしても必要な資料があり、4万円と高額なため猪瀬さんは買うことが出来ませんでした。
それは、志賀重昴(しがしげたか)の全集でした。当時の初任給が6万円の時代、それはとても高い本で買うことをあきらめましたが、ゆり子さんが「存分に勉強して、作家になる夢をかなえて」と言い、4万円を捻出しました。
その時、「その分は、後で作家になったら返してね」と言われたそうです。
その論文がきっかけで、「ミカドの肖像」を書きあげ、ノンフィクション界の芥川賞である「大宅壮一賞」を受賞し、作家としての道を歩き出しました。
ゆり子さんは、学校の先生をやって帰ってきた後も、猪瀬さんのくしゃくしゃの原稿を綺麗な字で清書してくれたそうです。
45年たった今も、「志賀全集」は猪瀬さんの書斎の本棚にありました。
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妻の突然の死
猪瀬さんが都知事として立候補をしたときも、妻であるゆり子さんは、片時も離れず応援し続けました。
都知事になった後も、夫婦は常に一緒に行動し、夫婦で公務を過ごす日々が続いていました。そして、オリンピック招致は2人の夢でもありました。
2013年5月25日、オリンピック招致の準備のため、夫婦でロシアに行く2日前、異変が起きました。
猪瀬さんは、ゆり子さんに脳の検査を受けさせた結果、脳の中央部に悪性の腫瘍が見つかりました。
その腫瘍は大きく、手遅れの状態で、余命数か月と診断されました。しかし、全てを取り除くことは不可能でしたが、一部を除去すれば余命を伸ばすことができると診断され、手術に臨みました。
9月7日ブエノスアイレスのオリンピック結果発表まで余命を伸ばす為でもありました。
入院から2週間後の2013年6月2日手術が行われ無事に成功。しかし、6月21日、手術からわずか9日後に容態が急変します。脳内に出血を起こし、意識不明になります。
そして、2013年7月21日、ゆり子さん永眠。
しかし、猪瀬さんはオリンピック招致決定を目前に控え悲しみに浸る時間もなく、アルゼンチンのブエノスアイレスに赴きました。
オリンピック招致から1年8か月、猪瀬さんは、妻に「ありがとう、さようなら」を言えなかったことに悩んでいました。
現在、孤独な生活を送る中、妻の遺品の片づけを始めた猪瀬さんですが、特に奥さんとの関わりが強い「志賀全集」を手放すことにしました。
それは、妻ゆり子さんが、猪瀬さんに「前を向いて生きてほしい」と思っていると思ったからです。
作家として前を向いて進んでいこうと決心した猪瀬さんが、けじめをつける為に、また、ゆり子さんと40年前の約束を果たすために、本を売りに行きます。
当時、4万円だった本の買取価格は5,000円。志賀全集を読む人もいなくなったと言います。
猪瀬さんは、本を売ったお金で、白いユリの花を買い、あの時のお礼を言って一区切りとしました。ゆり子さんの遺影の前に行き、ユリの花を手向け、「ありがとう」と感謝の言葉を伝えます。
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猪瀬さんは、「気持ちの整理をすると言う意味では、一歩一歩ですから、何歩やったらいいか分からないけど、たくさんの一歩を作っていくしかない」と語っていました。
作家としてまた再出発を心に決めた猪瀬さん、頑張ってくださいね。